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いち早く日本進出を果たした「マニュファクチャラーズ生命」

 

 

2021年6月現在、日本で営業している生命保険会社42社のうち、いわゆる外資系生保は13社にのぼっています。ここ最近では、新契約件数全体の4分の1以上を外資系生保が販売しており、確固たる存在感を発揮しています。

ただ、外資系生保が日本の社会に受け入れられるまでには、紆余曲折の苦難の歴史があったこと、また、マニュライフの前身である「マニュファクチャラーズ生命」が、日本に初めて進出した外資系生保3社のうちの1社だったことはあまり知られていません。

内国生保の誕生と法整備

いまから遡ること140年前の1881(明治14)年、福沢諭吉が創設した慶応義塾関係者が中心となり、わが国初の近代的生命保険会社として「明治生命(現:明治安田生命)」が誕生しました。その後、1888(明治21)年には「帝国生命(現:朝日生命)」、翌1889(明治22)年には「日本生命」が誕生しました。

内国生保の設立が相次ぐなか、1900(明治33)年3月に保険監督法として「保険業法」が制定されました。同年9月には、日本で保険事業を営む外国保険会社の監督のための勅令として、「外国保険会社ニ関スル件」が制定され、外国保険会社においても内国保険会社とほぼ同等の監督が行われることになりました。

 

日本での事業免許取得

こうした法整備を背景に、1901(明治34)年7月に米国の「エクイタブル」が、同年12月にはカナダの「サンライフ」と「マニュファクチャラーズ」が日本で事業免許を取得しました。その後も米国の「ニューヨーク」や英国と中国との合弁会社である「チャイナミューチュアル」などが免許を取得したものの、外国生保の売り上げは全体の1~2%程度でした。大正から昭和に入っても、内国生保と同様の「利益配当付養老保険」が販売の中心であったことや金融恐慌による減配の影響もあり、販売はそこまで拡大しませんでした。

 

創業当時の重要な地である横浜に支社を開設(1904年)
カナダ本社のビジネスモデルをもとに、 代理店ビジネスを拡大(1917年)
戦争による退去命令

やがて太平洋戦争の勃発により、1941(昭和16)年12月、敵国や敵国人の自国領域内の私有財産を政府の管理下におく「敵産管理法」が制定されました。それに伴って、1942(昭和17)年1月、「協栄生命(現:ジブラルタ生命)」が、「マニュファクチャラーズ」「サンライフ」「ニューヨーク」「エクイタブル」の4外国生保の管理人として選定されました。その後、同年4月には、「マニュファクチャラーズ」の管理人として明治生命が、「マニュファクチャラーズ」以外の3社の管理人として帝国生命が新たに選任されました。翌月には帝国生命・明治生命と協栄生命との契約により、協栄生命に4社の保有契約が包括移転されました。これにより、保険金支払いも含めた外国保険会社の業務はすべて停止され、事実上、日本からの撤退を余儀なくされました。

こうして、1973(昭和48)年の「アリコジャパン(現:メットライフ生命)」の進出までの約30年間、外資系生保の日本での営業は途絶えました。

 

 

出典:ニッセイ基礎研究所「昭和戦前までの外資系生保―明治後期からの日本への進出」(2016年5月31日付 小林雅史氏によるレポート)